瑠璃光院 白蓮華堂
日曜仏教礼拝(9月27日・鈴木先生)
感謝の心・懺悔の心
最も人間らしい心が、この感謝の心・懺悔の心の二つの心ではないでしょうか。
昔から人々に深く尊敬され、敬われる徳の持ち主である高僧・名僧は、
たいてい自己に対する評価は最低であり、非常に深く自己の罪業を見極められた方です。
それも自分の力で見たわけではなく、仏の智慧に接して、否応なしに見せられた方です。
仏の智慧に出会うには、小賢しい人間の計らいを持っているままでは触れることができません。
それを捨てた方、無我に近くなった方ほど、仏の智恵の光明を豊かに浴びることができ、
その光明を浴びることが豊かであればあるほど、自己の罪業がはっきり見えてくるのです。
人は人の助けを借りなければ、生きていけない身であり、
あるいは人を傷つけずには生きていけない身です。
普段気づかないことが、だんだん深く自覚されるようになると、
同時に深まってくるのは、感謝の心と懺悔の心の二つではないでしょうか。
「涅槃経」に「慚愧なきは名づけて人と為さず、名づけて畜生となす」という言葉があるように、
お恥ずかしい、申し訳ない、そういう心こそは、最も人間的な心情を示すことばだと思います。
しかしながら、善導大師は、懺悔も、私たちが普通に懺悔しましたなどと言っているものは、
懺悔に入らないと言っています。真の意味の懺悔は「回心」を伴うようなものだと言っています。
山伏弁円の回心のようなものでしょう。心の根本的な変革です。
今まで自我中心で生きてきた身が、自我に死んで、新しい自己、信の自己、
つまり仏の世界に属するような心をもって生きる身となる。そのような大きな変化です。
※山伏弁円 山伏の統領で大道場をひらき加持祈祷をおこなっていた。
親鸞聖人の布教で加持祈祷を否定され、それに怒って親鸞聖人を成敗しようと殴り込みをかけたが、
もの静かに、穏やかに対応され、突然雷に打たれたようにひれ伏し、親鸞聖人に帰依した人物。これを山伏弁円の回心という。